薬草つれづれ
「薬草の歴史」を辿ることは、一面「人類歴史」を遡ることでもあります。
どの時代も、人の暮らす所には「薬草」は研究の的でした。今、現在も尚です。
薬草の神々が各地に祀られて(神農 少彦名命 薬師如来 等々)いるのも、どれほど「薬草」が生活するにつけて重要であったかをうかがい知ることができます。
「越中富山の薬売り」をご存知の方も多いと思いますが、各家庭は、薬売りの人から様々な医療知識を貰いながら、自然治癒力を促す生活をしてきました。
時は流れ、現代にあっては何かにつけて情報が氾濫しています。情報が有りすぎて逆に何を、どれを信じたら良いのか分からない。【情報過多の時代】、”混沌の波の中で漂っている時代”なのかもしれません。
そんな行き詰った時には「歴史に学べ」と云われます。
その薬草の歴史の中でも、和歌山にあっては有名な紀州の五代藩主・徳川吉宗。
後の八代将軍徳川吉宗です。暴れん坊将軍など政治的な面だけがクローズアップされがちですが、貧しい人たちの為の、有名なところでは「小石川養生所」(映画の「赤ひげ」で上映)を立ち上げています。。医療といえば天皇や貴族のもので、貧しい民百姓などには手の届かないものでした。もっと最近の有名な話としては、韓流ドラマの「ホジュン」を見られた方も多いのではと思いますが、豊富秀吉が朝鮮出兵した時代の人物です。その時代に 「東医宝鑑」という韓国版「黄帝内経」と云われるほどの医学書を書き上げました。
ここからです。その東医宝鑑が対馬に渡ってきているのを知った吉宗は、江戸城に持ってこさせて医療、薬草の知識を様々に研究したという記述が残っています。その中でも、高価な朝鮮人参の輸入には頭を悩ませていたので、何とか銀の流出を止めるためにも国産の朝鮮人参の栽培をできないものかと、試行錯誤しながら対馬より、「朝鮮人参の苗」を取り寄せて様々な藩に研究栽培をさせています。
立派な皇帝も天皇も、「女性の腹」から生まれることを考えれば、医学書の一番のページは婦人病、次いで小児科は自然の成りゆきでしょう。
どの時代も、人の暮らす所には「薬草」は研究の的でした。今、現在も尚です。
薬草の神々が各地に祀られて(神農 少彦名命 薬師如来 等々)いるのも、どれほど「薬草」が生活するにつけて重要であったかをうかがい知ることができます。
「越中富山の薬売り」をご存知の方も多いと思いますが、各家庭は、薬売りの人から様々な医療知識を貰いながら、自然治癒力を促す生活をしてきました。
時は流れ、現代にあっては何かにつけて情報が氾濫しています。情報が有りすぎて逆に何を、どれを信じたら良いのか分からない。【情報過多の時代】、”混沌の波の中で漂っている時代”なのかもしれません。
そんな行き詰った時には「歴史に学べ」と云われます。
その薬草の歴史の中でも、和歌山にあっては有名な紀州の五代藩主・徳川吉宗。
後の八代将軍徳川吉宗です。暴れん坊将軍など政治的な面だけがクローズアップされがちですが、貧しい人たちの為の、有名なところでは「小石川養生所」(映画の「赤ひげ」で上映)を立ち上げています。。医療といえば天皇や貴族のもので、貧しい民百姓などには手の届かないものでした。もっと最近の有名な話としては、韓流ドラマの「ホジュン」を見られた方も多いのではと思いますが、豊富秀吉が朝鮮出兵した時代の人物です。その時代に 「東医宝鑑」という韓国版「黄帝内経」と云われるほどの医学書を書き上げました。
ここからです。その東医宝鑑が対馬に渡ってきているのを知った吉宗は、江戸城に持ってこさせて医療、薬草の知識を様々に研究したという記述が残っています。その中でも、高価な朝鮮人参の輸入には頭を悩ませていたので、何とか銀の流出を止めるためにも国産の朝鮮人参の栽培をできないものかと、試行錯誤しながら対馬より、「朝鮮人参の苗」を取り寄せて様々な藩に研究栽培をさせています。
余談ですが、田代和生教授の研究によると、吉宗は朝鮮の制度や思想を参考に享保の改革を断行したといいます。吉宗は日本初の韓国マニアで東夷宝鑑を座右の書にしたばかりか、一生を掛けて朝鮮人参の栽培をしたり、東夷宝鑑の理解のために朝鮮薬剤と日本の薬材を調査し、医療を刷新したとあります。あまり知られていない吉宗の人物像ですが、小石川養生所はその後、日本国の第一号の総合病院となり、薬草畑は小石川薬草園として東京大学の中に現存しています。薬草の歴史を辿っていくと、そんな”百年…二百年の先見の目”に止まらず、吉宗のひた向きに傾けた情熱は、ホジュンとダブるところが見え隠れしてきます。東夷宝鑑は現在、ユネスコ文化遺産に登録され欧米の西洋医学界でも注目を浴びているといわれます。
紀州藩も御坊や熊野古道沿いなどに植えたという記録はありますが、その名残は探しても見つからないのが残念です。
何よりも和歌山城の近くに「薬種畑(やくしばた)」という地名がありますが、そこにも薬草畑があった名残の地名でもあります。
薬草の歴史
日本に陰陽五行論が入ってきた時期はまだ定かではありませんが、金武(外国からの医師による初、天皇を治療)や徳来(難波の薬師の祖)などが渡来の後、継体天皇(513年か?)の頃、五経博士達が来日。以後百済から、易 暦 医薬などの専門学者が定期的に派遣されます。【易】も【暦】も【医術】も基本的に、陰陽五行論(注:陰陽五行のページを参照)が基軸に成り立っています。そんな中、繰り返し起こる、大陸では変遷、国内では政変(天皇後継争い)。その中を掻い潜りながら僧侶や学者は命がけで書写をし、政治、経済、医療などの基礎づくりに多大な役目を担いました。
その渡ってきた医書のひとつに「千金方」があります。【人命は千金より貴い】ことにより、初めに医師の倫理を述べ、次いで婦人病、小児病に巻をあて、陰陽五行論に基づいて臓腑理論を分類、難病 救急 食冶 養生 脈診 針灸などについて記されています。立派な皇帝も天皇も、「女性の腹」から生まれることを考えれば、医学書の一番のページは婦人病、次いで小児科は自然の成りゆきでしょう。
漢方の歴史の中で、婦人薬が群を抜いて沢山の処方が残されています。
現在、日本の医療現場で問題になっているのは、婦人科と小児科の医師不足。命の根本問題なのにあまりクローズアップされてこないのが不思議なかぎりです。